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春の遠足(二日目にして思うこと)

ぼくの春の遠足、二日目を迎えてました。

この間の、ぼくの感慨を描いてみます。

ぼくは神社本庁に籍を置く神職です。

しかし、神社仏閣に参拝することはほとんどありません。

なぜでしょうか?

名社・古刹といわれる歴史ある聖地には、必ずや麗しくも輝かしい神様仏様が厳然と在わすこと間違いありません。こうした神仏を直に拝することは、それはそれでとても有り難いことではありますが、ぼくはこれを潔しとしません。

なぜでしょうか?

聖地巡礼は有難くも尊いことを認めます。しかし、こうした聖地への巡礼は、肉体を持つこの身でなくても出来ます。このことは、この世を正しく生きる上できわめて重要なことです。すなわち、聖地巡礼はこの肉体を去ってから、むしろ彼の地でこそ充分に出来ます。

なぜなら、彼の地の聖地はこの世の聖地とは比較にもならないほどに素晴らしくも麗しい神仏の「本籍地」であることを、ぼくは知っているからです。

ならば、私たちが今求めるものは?

全国各地に畏くも尊く在わす八百万の国津神様とは別に、天津神様が直接統括される大きな浄化の場をぼくは求めたいのです。

それが、芸術の活動であり、スポーツイベントであると理解しています。今回のぼくの春の遠足では、小澤征爾音楽塾の公演と甲子園センバツ高校野球を組み合わせていますが、これらの催しが非常に大きな浄化の場であることを認めているからです。

昨日の小澤征爾さん指揮のオペラはまたとない素晴らしい演奏であり、煌めくばかりの神々しい舞台でありました。ここに神々の真技がはたらいていないはずはありません。

今日の甲子園、第1試合の福井vs.仙台育英の試合などは球史に残るような素晴らしいものでした。輝く生命がスポーツを通してさらに輝きあふれる様子は、言葉では尽くしがたいものがあります。こうした若人の祭典に神々の真実が存在しない理由はないと考えます。

肉体を持つ私たちであるからこそ、肉体世界に直に発現される神々の真実を求めたいと、ぼくは念願するのであります。それが芸術であり、スポーツであるのです。

ぼくのように、スピリチャル系の体質を持ち、生まれ持って神仏との深い縁を持つ者は、心して学問を志し、芸術を愛し、スポーツに接する機会を持たねばと思います。

でないと、宗教の臭みをまとった、因縁の波による影を背負った人間に陥ってしまうと考えるからです。こうした意味で、ぼくのような霊的人間は、肉体世界にこだわった浄化の場を心して求めて生きたいと思っています。

肉体を持って求めるものと、肉体を去ってから求めるものは、自ずから違うということを明記したく思います。

今しも、春の甲子園、ぼくの目の前には、野球の試合を通して激しく燃焼する高校生の輝かしい生命の姿があります。