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宇多丸を見習って「ゴーストインザシェル」を批評する

「公安9課をナメんじゃねぇコノヤロー、ダンカン銃を早く持ってこいよバカヤロー」

一番好きなアニメは何かと聞かれたら、俺はしのごの言わず「GOHST IN THE SHELL(攻殻機動隊)」と答える。

理由としては、あまり明確になってない。

なんとなく「個の存在」だとかそういった自己啓発的なテーマを色んな角度から攻めていて、他のアニメでは似たような切り込みが出来ない程完成された作品に仕上がっているからだ。

今回実写版の作品を見てみたけど、正直感想メモとしての批評をするのは難しい。難しいというか、これと同時に攻殻機動隊の奥深さに限界を作ってしまい、挙句に固定してしまう恐ろしさがある。

でも、あくまで実写版映画の感想と留めておこうと思う。

今作も前例習って、個の存在やら自我の証明は作品全体のテーマとして関わっていた。

草薙素子(作中はミラ・キリアン)は電脳とつながった全身義体として初めての存在であった。

過去の記憶がほとんど無い自分が何者なのか探す部分、公安9課としての職務を全うするサイボーグである部分の2つの課題を解決する中で自分は何者で、何者になるべきなのかを葛藤しながらストーリーは進んでいくことになる。

まず、どこから話そうかという所だけど。

簡単な所として、音声的な部分で感想がある。

観たのはもちろん日本語吹き替え版。

まさに田中敦子大塚明夫山寺宏一の声を堪能しながら聞いていた。

先述した様に、素子はアニメ版に比べて人間的な側面が強く、悟りはあまり持っていない。歳は20代中盤位だろうか。社会的にはまだ若い部類だ。

それ故なのか、ミラが「記憶と幻覚がごっちゃになってる」と言う。「ごっちゃ」という訳し方がミラの性格と合っていない事に少し違和感を覚えた。いくら若いとは言えどんなもんだろう。口パクに合わせに行ったのか、どうなのか。

これは映画が悪いのではなく、翻訳の担当とそれを通した課長達が悪い。

でもやっぱり声優達の声のトーン、口と言葉の合わせ方は見事だった。北野たけしは滑舌のせいで少し聞き取れなかったけど、それも味があって良いのかなと思った。

さて、じゃあ中身はどんなだったかという話だが

はっきり言ってしまえば、アニメ版の名シーンをふんだんに使ってオリジナルストーリーを作ったと言えばこれ以上に簡単な要約はないだろう。

実際に使われたシーンや小ネタは当時気づいただけで以下の通り

GOHST IN THE SHELLでは

・冒頭で素子の義体が作られていくシーン

・屋上でのちょっとした会話からの突撃

・窓がやけにでかい部屋(個人的にはかなり好きなシーン)

・暴走清掃員

光学迷彩鬼ごっこ

・清掃員の記憶改竄

・最後の決闘

・車のデザイン

・海に潜る時のくだり(その時の個人的名ゼリフは無かった)

多分他にもいっぱいある。基本この作品を軸にしている

TVシリーズ1期

・最初の突撃現場の様子

・修理とかメンテナンスしてくれるスタッフの服の色合い

・サイトー先輩のありがたみ

あまり無かった

TVシリーズ2期

・クゼ先輩の存在

・バトー先輩の荒い運転

・童貞先輩っぽい役の存在

・電脳と繋がるからヤバくなったら助けてや〜

ここが違和感の出てくる要因でもあった。

イノセンス

・日本人形自壊寸前で射殺

・タスケテ

・テーマソング

・ビーグル犬とバトー

・ファラウェイみたいな人

・セキュリティみたいな人の集まり(クゼの動力)

・ヤクザの屋敷に殴り込むくだり

・ビルに映し出された柴犬(ビールの銘柄イラストが柴犬)

基本的に劇場版が元になっている事が分かる。

実写版は、原作の難しいやりとりを簡略化と言うか、簡単なメッセージに誘導している様だった。大衆向け映画として処理するしかなかったのかも知れない。

アニメの映画は実験的な表現が多く、大衆向けに作られていない事はすぐに分かるだろう。でも実写版になるとどうしても多くの人が共感できる内容にしなくてはならない。そこで、ゴーストという言葉はあくまでアイデンティティという噛み砕きをしている様に思えた。

メッセージとしては「アイデンティティとは記憶からなるものではなく、その時本人が何をするかである」と言うものだっただろう。

博士が言っていた言葉だし、最後に素子本人も言っていた。

まず違和感を感じたのは、アイデンティティを探すのかゴーストを探すのかが最初分からなかった事にある。最終的にはアイデンティティになったのかなと思う。

アイデンティティ=ゴーストなのか。多分違う。

ゴーストとは、ある程度の集団的無意識も含まれていたり、業やら性やらが内包されていたりするのではないか。それに、データからなる客観的な判断ではなく、直感やセンスにもなる。それに比べてアイデンティティとは、個性であり、これもまたデータの傾向に還元される可能性がある。

アニメ版ではゴーストもデータから生まれるものだ。

人間たらしめる部分として、子孫としての多様化が挙げられるが。

つまり、ゴーストとは人間である事の証明でもありながら「人間とは」といった普遍的な答えも探しているのに対し、アイデンティティとはあくまで個の中にある自分の意思という枠を抜ける事は出来ない。

この差は決定的に違う。全くの別物になる。

それをどういった行為や行動によって素子の答えを導き出すかだが、それは最終決戦のラストシーンに他ならない。

「私はまだ行かない、私はここにいるもの」セリフ自体はうろ覚えだが、確かこんな感じだ。

注視すべきは「わたしはここにいる」だ。

素子は、本当の記憶を取り戻す事も出来たし。人との繋がりによって自分を取り戻す事が出来た。全身義体であれ、電脳であれ、一人の人間であった事を大事だと捉えて、データの集合体の道を選ばなかった。

そりゃそうかなと。電脳世界で情報の海で自我を保つ程に素子はゴーストについての悟りを開いてない。

アニメ版映画は、

「童の時は、聞くも童のごとく、論ずる事も童のごとくとなりしが、人となりては童のことを捨てたり」(うろ覚え)

だとか

「孤独に歩め、悪をなさず、求めるものは少なく、林の中の像の様に」

だとか、聖書やらブッダの教えやらで自分と、自分のいる世界との隔絶を悟っていた。

しかし、実写版はそうも行かない。

なぜかと言うと、電脳世界についての恐怖を語っていない事。科学的に証明された世界の仕組みは人間の感情も科学的なものであり、人間の全てはデータの集合体でしかないという真理に対する恐怖。自我と周囲の相対的な情報のみで己を証明する事、ゴーストがある故に自分自身に蓋をしてしまう事。

これらを掘り下げずに、あくまでミラ自身の自分探しを頑張っていた。

ちょっとしたAIという映画の様な気持ちになった。

個人的は別にメッセージやテーマが原作とずれていても別に何とも思わない。肝心なのは映画作品を通して一貫性のあるストーリテーリングだったりとか、贅肉がついてないかとかだ。

ここまで、のべつ幕なしに概要を論じてきた。この映画がどういうメッセージを持っているかと言うのが分かったかと思う。

ここからは映画単体で評価したいと思う。

今回は全身義体と電脳を持つ人間を作る、つまりミラを作るために犠牲となった人間の復讐が敵となった。

更にはそれが、政府御用達のハンカにおけるスキャンダルを隠蔽する為の敵が現れた。

いいよ、全然面白いよ。

ただね、時間が少ないのね。

2時間じゃやりきれないのよ。

最終的には身動きの取れない様な壮大なテーマが元になっていて、いろんな解釈がある中で時間以内に収めようとしたらニュアンスを並べ立てるしかないって感じだった。

これが良いか悪いかはともかく、ニュアンスから視聴者が何を捉えるかってのが試される訳だ。

悲しいかな、結局アクションがどうだったとか、街並みがどうだったとか、バトーの目がどうだったとか、そういった上部の評価しかされないんじゃないかなと。

というか、映像的にクオリティが高い原作と遜色ない土俵を構築すると、そっちばっかり気にとられてしまう。必然性のあるミスリードがこの映画の危険な所だ。

「原作のクオリティに近かった」

「あのシーンが見れたぜ、やったぜ」

位で終わって

「オチが違う」

桃井かおりイラネ」

とか。そんな感じになるんだろうなと。

原作を知っているなら、もっと深読みをして欲しい。

この映画の中でのジョーカーは、ハンカの社長、桃井かおり、ヒデオさんの御三方だ。

ここでオリジナリティを出しつつ、監督の考えた「原作に対するレスポンス」を見る事が出来るんだろう。

個人的にはハンカの社長が勿体無かった。

もっと掘り下げて欲しかった、彼の思想はアニメ版の6課の部長、イノセンスで言うところのキムを混ぜた格好になる。

人造人間にノイズが生まれてしまっては、人間の作る物にしては扱いが難しい。だから、人工物は思い通りにならないといけない。

人格でさえ統合された完璧なプログラミングを

求めていた。

でも、作中ではヤバい実験した悪者となっている。立場的には悪者だけど、その人なりの思想を聞きたかった。

言葉の中から探すとしたら「人間はこれだからダメなんだ」といったところか。

桃井かおりは完全な人間だったかなと思う。

桃の節句でもないのに雛人形を出しっぱなしにしてるところを見てると「嫁に行き遅れる」と。そりゃ娘も家出するって。

冗談はさておき、人間と人間の間に生まれた存在であるという、完全なる人間の証明が出来た。ミラの持っているナニカはノイズではなく、ゴーストであり自我であると。

だからこそ、最後の戦闘で出した答えが電脳世界との結婚破棄だったかなって思う。

あとは、不幸な男ヒデオちゃん。

原作のプロセスを逆にしている。電脳から生まれたゴーストではなく、ゴーストを保つために電脳を使ってオリジナルのコードを構築しているというかなりトリックに満ちた設定をかましてきた。それでも自分が何者であるかを知らずに過ごしてきた。

そいつが復讐をするのだが、彼もまた被害者であった。

復讐心を持つのは別に良い、人形に成り下がり、不良品扱いされた事は怒りの根源としても十分説得力がある。

でも足りない。まだ行ける、素子よりも電脳の枝を伸ばしていた彼ならもっと悟れる。アニメ版草薙素子位で良いんじゃないかと思った。

やっぱり難しいんだよな、2時間ちょいの制約で掘り下げるのは。

思考ゲームに重きをおくとなると、アクションもなかなか尺取れないしね。

これだけは言っておきたい事があった。

原作のイノセンスを題材にしたであろう、冒頭で日本人形ロボットが「タスケテ」と訴えるシーン。

これはかなり意味が大きい。

ゴーストを組み込まれた人形の悲痛な叫びであるはずなんだけど、アレだけ出されるとタダの命乞いでしかない。

人形が個の消滅に恐怖するシーンなのか、防衛的なプログラムから起因する定型文なのか判断がしづらいところだった。

人形と人間は実際の所あまり変わらない、それは白が黒ではないという領域の話で、それ以上の絶対的な違いは存在しない。こんな理論が展開されない。

あくまで素子の精神的発見によってニュアンスが伝わるだけだ。

あくまで、実写版は実写版の解釈がある。それを考えながら見てみるのが一番良いと思う。

監督もバランスに注意しながら頑張って作ったと思うよ、でも時間的な制約で限界を作ってしまったかな。

もう一度見たいと思う作品だった。

今度は3Dとかで。

ちなみに、笑い男で使われた「俺の目を盗みやがったなぁ!!」というくだりは無かった…